「創造と回復 ー温もりのあるお寺をともに!ー 」
半月ほど前、ブラジルで開教使をしている弟との電話で、原爆の話になった。弟が赴任しているマリリアのお寺に、「広島県人会原爆犠牲者追弔会」の木の看板があり、嘗ては法要が勤修されていたとの事。(マリリアの寺は広島の人々が建立したそうだ。)
それから話は子ども時の話になり「広島の街なかで傷痍軍人さんの記憶があるか?」の話になった。私は1964年(昭和39)、弟は1967年(昭和42)生まれであるが、弟も記憶していたのには少し驚いた。
1956年(昭和31)、「もはや戦後ではない」は経済白書の一節であるが、少なくとも1970年中頃までは街なかに戦争の残滓があった。「もはや」とは経済が戦前の水準を超えた事が根拠だそうだ。同じ年ある作家が「一億総白痴化」の言葉を発した。
私が20~30才の頃、ご門徒のお内仏の過去帳にはその多くが8月6日が開かれて、軍人さんの小さな遺影もよくあった。お勤めの後、私からその事について話を向けることは殆ど出来なかったがそれでも何年も経って、何人かのご門徒がふと語って下さった。
私はその内容はもちろんだが、それ以上に私に語って下さった事、そして戦後を念仏申し、黙々と生きて来られた様に、生きるという事の厳粛さを頂いた思いがした。その方々の多くはすでにいのち尽くされたが、今もって私に語って下さった意味を考える。
「創造と回復」
聞法とは、私が大事だと思い握りしめているさまが顕《あらわ》になり、聞いたという事実が私を問い続けてくる事だと思う。
藤元正樹先生は
「如より来生するというのは、かかわりを如という。相い応ずるところから生まれてくるのが仏さまや。」と申される。
何処まででも「不請不請《しぶしぶ》」でしかない私に、「不請《ふしょう》の友」としてかかわり続けてくれる。
教区(組)は、そのままでは自分の思いで孤立して立ち行かなくなる私に「如来」する場であると思う。
(教化推進本部 泉原 寛康)