特別リレーコラム

【教区教化テーマ リレーコラムVOL11】 

 

「創造と回復 ー温もりのあるお寺をともに!ー 」

コロナ禍の自粛モードの影響を受け、公私共に生活の流れが少し緩やかになった。これを機縁に以前から気になっていた自治体主催の手話講座にチャレンジすることになった。ニュースの解説や政府の会見の傍らで、とてもテンポよく表情豊かに手話通訳をされる姿に日頃から不思議な魅力を感じていたからだ。

週一回のその時間は自身の生活空間とは真逆。〝聞こえない空間〟を体感する。四人の講師のうち、通訳者以外はろう者(聴覚障害者の一区分)で、先天性、突発性の聴覚障害者である。

コミュニケーション方法は、「筆談」「口で形を作る(口語)」「手話」「身振り」「指さし」「空書」など多くあり、それを理解するにはface to faceが必須条件で、お互いを尊重し「伝えたい!」「知りたい!」という瞬間の気持ちが合致しなければ相手の名前すら知り得ることが出来ないのだから、苦戦を余儀なくされる。

しかし、透明なフェイスシールドの向こうからは、口、目、鼻、耳、眉や顔のシワの動きまでが鮮やかに飛び出してくる。また、ソーシャルディスタンスの身振りからは、揺れ動く空気と共に互いの温もりや匂いまで感じる。「目は口ほどに物を言う」という諺があるが、この場合は全身が物を言う。聴者である受講生と聴覚障害者である講師との全身で伝え合う空間は、静かで力強く、とても豊かで明るく命の温もりを感じる。ただ、ここまでは相互の理解ありきの話だ。

では、実際の現場ではどうだろうか? 聴こえる耳はわざわざヘッドホンで塞がれ、自ら難聴を誘発している。口も今やマスクで覆われ、何を伝えたいのかわからない。そのマスクの上から覗く目には表情が無く、本物が見えているのか。体はストレスで硬直し、そこから発せられる言葉に温もりは感じられない。私たちは、時代社会の風潮というこの大きな障害に気づいているのでしょうか?

聴覚障害者のブログには、コロナによってさらに表情を失ってしまった聴者を悲しむ言葉が連なっている。私という一人の存在すら見失ってしまった私たちは、傍にいる大切な誰かに今、何を伝えることが出来るのだろうか。

今後の教育現場ではAIロボットが巡回し、子ども達との交流を推進していくという。冷たくかたい金属の人形に触れたその小さな手は何を感じ、これから何を伝えていくことができるのだろうか。

明日がわからないこの瞬間の命の回復が、私たち一人一人に願われているのではないでしょうか。

(教化推進本部 廣住 美津子)