「創造と回復 ー温もりのあるお寺をともに!ー」
今年の二月、JR元町駅で男性が電車に飛び込む事故があった。時速百キロで通過中の快速電車に身を投げ、厚さ一センチのフロントガラスと、運転席と客席を仕切る五ミリの壁を突き破り先頭車両のドア付近で絶命するという凄惨なものであった。
後日、そのことが話題になり、ある人の口からこういう言葉が出された。「死ぬのなら一人で死ねばいいのにね。多くの人の迷惑になった。」先頭車両に乗っていた男性会社員が巻き込まれて腕を骨折し、また若い妊婦さんが体調不良になり病院に搬送された。何より、列車利用客約三万八千人の予定に影響を出したという。そのことを考えると確かにそういう言葉が出てくるのも理解はできる。おそらくこの事故をニュースや新聞で知った人の多くはそういう感想を持ったのではないだろうか。列車の飛び込み自死に対して多くの人の第一の関心ごとが、「どれだけ人に迷惑をかけたか、どれだけ人の予定を狂わせたか。」なのだ。
解剖学者の養老孟司氏は「都市化」の問題を常々指摘している。文明の進化による都会化ではなく、人間の用意したもののみが存在できる世界、人間の意識の世界を優先し、想定外のものは徹底的に排除、縮小されていくことが都市化だとしている。先日あるご門徒さんに、近頃の葬儀式についてご心配の声を聞いた。葬儀後、還骨勤行の前に初七日を勤めてしまうことがあったそうだ。それで良いのかと心配されていた。私の住む町では銅張りの豪華な霊柩車から黒塗りのリムジンに替わっただけでは飽き足らず、とうとう白い霊柩車が走り出した。葬儀場の近隣からの苦情に対応したそうだ。「死」という自分にとっての想定外を忌み嫌う顕著な動きだ。まさに「人が亡くなる」ということが都市化によって想定外にされ、それにまつわる儀式が縮小されているのだ。通夜葬儀を何ヶ月も前から予定してスケジュール帳に書いている人などいるはずがない。そういう予定外、想定外のものはどんどん存在意義を失っていく都市化という問題は非常に深刻だ。
「死ぬなら一人で」という言葉もまた想定内のみを生きようとする都市化の問題の現れであろう。私たちの都合などおかまいなしにやってくる、しかも私たちの心を揺さぶって離さないその想定外をすぐにでもなんとかしないと不安なのだ。「どのような死でも冒涜できないことは知っている。しかし多くの人に迷惑をかけたこの死に対する批判には義がある。だから、この考えは私一人ではないはずだ」とあえて声を上げ共感者を求める。そして共感を得ればそこで安心し、直ちにその人の想定外は処理されてしまうのだ。
葬儀式という、想定外になりつつある儀式の中で、皮肉にも最も確かめられなければならないことは、予定内、想定内を生きようとする私たちに、予定外、想定外こそが実は私たちの生きる世界そのものであり、人間のほんとうである、ほんとうを生きる者になってほしい。という如来からの呼びかけであり願いだ。亡き人と真向かうその儀式において、身をもって示して下さっているそのほんとうを私たちは教わるのだ。
ほんとうを生き合う世界でなければ、想定外ということを真向かいに受け止めていくということはできず、想定外をただ想定外として処理していくことになるのだろう。その一見無難ではあるがほんとうのない世界を私たちは生きたいと願っているのだろうか。私の思いをこえた私のいのちは、次々と起こる想定外にしっかりと向き合い、一人一人が自分ごととしてなぜ?と思いを馳せていく、ほんとうの世界を生きたいと願っているのではないか。
多くの人を巻き込んでまで電車に飛び込まなければならなかったその男性は一体どんな思いで生きておられたのか。どんな人生の中でその選択を選ばざるを得なかったのか。本当はどんな世界を生きたいと願っておられたのか。皆が忌み嫌う想定外は、実は私たち人間にとても大事な問いをもたらしてくれている。何を創造し、何を回復するのか、温もりとはどういうことなのか、宗門をこえて社会全体に問われているのではないだろうか。
(同朋の会推進部門部長 西堀秀行)