特別リレーコラム

【教区教化テーマ】についてのリレーコラムVol.7

現在も、コロナ禍で三密を避ける生活を強いられています。そもそも真宗の教えは三密によって伝わってきたのではないかということを思うと、お寺での教化活動も難しいですが、三か月休会した同朋会も七月から再開し毎月集まっていただいています。人生を仏法に求める人がいる。その願いには命がけで応えなければならないと思っています。
 このコロナ禍は、コロナ〝渦〟と表した方が的確なのではないかと思うような人間の、社会の歪みが渦巻いた形で顕わになってきました。そのような中、この身この世に本当に願われていることは何なのか、お寺は何のためにあるのか、私は何のためにお寺にいるのか、を問われ続けています。真宗寺院の存在意義は? 温もりのあるお寺とはどういうことか? 親鸞聖人の課題は「生死出ずべきみち」だったのではなかったか? 真宗のお寺は、その「生死出ずべきみち」が一人ひとりの課題とならないならば存在意義はない、と言えば言い過ぎでしょうか。お寺で様々なイベント事をしたり、悩み相談を受けたり…。そのことを否定するつもりは全くありませんが、本当に温もりのあるお寺とは「生死出ずべきみち」を共に求め共に応えようとすることによって実現するのではないか、誰にとっても「生死出ずべきみち」が「確かにここにある」と言えることにおいてのみ真宗寺院の存在意義があるのではないかと、親鸞聖人から呼びかけられているように思います。
 教区教化テーマ「創造と回復」は私にとって、一つはそういう場の創造と回復だと理解しています。そして何より私自身が「生死出ずべきみち」を求めて聞法する姿を門徒さんに見せられているのか(もちろん見せるために聞法するわけではありませんが)と問われているのだと、このテーマから考えていることです。
(教化推進本部副本部長 栗栖 寂人)