リレーコラムVol.2
オウム真理教の幹部らによる地下鉄サリン事件が3月20日で25年を迎えた。事件当時、その一人が「日本の寺は風景でしかなかった」と語り、その言葉に私たち伝統仏教教団の僧侶が衝撃を受けたことは、今なお記憶に新しく、その言葉から問われている毎日である。「お寺って一体何だろう」と。
田舎では過疎化が進み、空き家が増え、お寺も大谷派だけでも毎年15カ寺程減っている。墓じまいは言うに及ばず、かつて欧米の人から「日本人は家の中に教会を持っている」と驚かれたお内仏も減ってきており、ご本尊のある生活が失われていっている。手をあわせる場所が生きていくうえで必要であろうに、うまく伝えられない自分がもどかしい。
お寺の本堂は、いつでも誰でもお参りしていただけるよう、清掃し、お華を立て、荘厳している。学校で何かあった子、子供を亡くされた方、様々な悩みを抱えておられる方々。訪れる人々は年々減ってはいるが、いらっしゃらないわけではない。そんな時は本堂へ上がってもらってお話を聞かせていただくことにしている。お茶とお菓子を出し、こちらは決して多くを語らないよう心掛けている。その方が話し始められるのをゆっくり静かに待つ。本堂というのは、やはり特別な聖なる場所、空間である。教えに出遇う場なのである。阿弥陀様の前に座っていただくことによって、何かしら感じられるものがあるのか、顔の表情が柔らかくなって帰っていかれると、私もほっとし、嬉しくなる。しかし、そうはならないこともあり、悲しい顔のまま帰られると、こちらも気が滅入りつらい。
「ようこそ、ようこそ」といつも快くお迎えしたいのだが、気持ちの余裕がないとなかなか心から温かく接するのが難しい。お寺の生活にはプライバシーもないのかと愚痴の一つも言いたくなることもある。「寄り添う」と言いながら、そうはできない自分である。温もりのあるお寺とは程遠い現実である。どこまでも自分中心、自分の都合でしか生きていない自分に気付かされる毎日であり、そんな私だからこそ、お寺に住まわせてもらっているおかげで、いろんな事に気付かせていただけ有難いのである。 〔教化推進本部 副本部長 正親久美子(第1組西寳寺)〕