初夏の陽気を思わせる四月二十四日、愛生園を訪れた。やわらかな新緑の中、車を走らせ瀬戸内の穏やかな海を眼下に橋を渡る。
島のもう一つの療養所の光明園に初めて訪れた時、私は思わず園の方に「きれいな所ですねぇ」と言葉を交わしてハッとした。それは、療養所としては素晴らしい立地であるけれども、隔離という悲しい歴史を思うとき、その景色は穏やかであればある程、きれいであればある程、なんと酷なことなのかと話しかけたその方の困惑したような笑みが教えてくれた。
訪れ始めてまだ数回だが、美しい海を渡る度に胸がキューンとする。交流会での園の皆さんは、馴染みのない私にも本当にきさくに温かく迎えて下さる。何かホッとする瞬間だ。法話が終わると座談会となり、口下手な私は自己紹介に終始するが、療養所の方々、特に女性の方は殆んど何も話されない。
後の雑談で話しかけたいと思っていても隣り合わせの人と言葉を交わしている間に時間は過ぎてしまい、和やかで楽しいひとときだが何かもの足りなく感じる。私の想像などとても及ばないつらい心の内を掘り起こすように聞いてもいいのだろうか、今はもう明るく楽しいことで暮らせるように触れて欲しくないのではないか、そして何よりも私は訪問する人になっているのではないか・・・帰りの車の中でいつもゆれている。医学的にも完全に治癒でき、法律も廃止された今でもなお残る偏見という人間の悲しさ。私はたまたま今おかれている環境のなかで少し見聞きすることができているからその言葉とは相対する場にいて善人ぶっているのではないかと自分に問うてみる。
療養所の方々は殆んど高齢者になられている。残りの人生が本当に解放され安らげるよう共に交流会の場に身をおき開かれていくつながりを持ちたいと思っている。(施設交流部)