【教区教化テーマ】についてのリレーコラム Vol.3

ぬくもりのあるお寺をともに
毎日門徒さん宅におまいりしながら、お寺の住職として生活している。御仏事は1年以上前からお約束することもある。大変情けないことだが、お約束した日程の変更をお願いすることがある。
すでにご親戚にお伝えしたかもしれないお仏事を変更していただく事は大変である。お約束の変更を住職が連絡することもあれば、坊守がお願いすることもある。
今まで何度坊守が電話の前で頭を下げている姿を見ただろうか。ある日、坊守が電話の前でひたすらに頭を下げている姿を見たとき、ハッとした。人が寺にいることを見た。
当たり前だが、お寺には人がいる。「住職とは寺に住んでいる人」と聞いたこともある。お寺に住職や寺族がいることは当然のことに思っている。しかし改めてお寺に人がいることを認識するのは初めてだった。
それは、お寺は人がつくったことを確認したことだった。頭を下げていることに驚いたのではない。頭を下げている人がいること、お寺に人がいたことに驚いた。そこに身をおいている人がお寺にいた。
お寺という伽藍に人がいるのではなく、また人が伽藍を作ることでもない。そこに身をおいている人がお寺という小さな教団をつくった。つまり欲に苦しみ迷う人がいて、その欲に苦しみ迷う人が、小さな小さな教団を作り伝え続けたことである。
人がいることを当たり前としていると、”目の前の人を同朋として見いだすこと”はできず“人から遠のいたお寺”になっていると思う。教団とは教えに集う人であり、その集いは楽しく、ぬくもりのある場所だと思う。
目の前の人を大切にしていきたい。願望だけで終わるかもしれないが・・・。
〔教化推進本部 松江 長親(備後組明圓寺)〕

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