姫路船場別院本徳寺の紹介
姫路船場別院本徳寺の由来
「船場御坊」の名前で地域に親しまれている船場本徳寺は、「真宗大谷派※1姫路船場別院本徳寺」という(山号は、「轉亀山」)。本徳寺のはじまりは、蓮如上人(1415~1499)がその晩年、下間空善(しもつまくうぜん)をはじめとする弟子たちを播磨に派遣したことによる。空善らは英賀の浦(あがのうら)※2に道場を建立し布教した。この道場が二代実玄、三代実円の頃には「本徳寺(英賀)」と称し、本願寺の御坊寺院として播磨教団の中核となった。
しかし羽柴秀吉の中国攻め(1577~1582)による播磨侵攻で英賀城が落城(1580)すると、秀吉により英賀から亀山※3に移転させられる。
さらに慶長年間(1596~1615)に本願寺が東西に分派した際、亀山本徳寺は、はじめ東派※4に属したが後に束本願寺教如上人(1558~1614)と姫路藩主池田輝政との間に確執が生じ、西派※5に転じた。その後、池田家が没落し代わって姫路藩主となった本多忠政が元和4年(1618)に船場の寺地※6を東本願寺宣如上人(1604~1658)に寄進し、教珍が入寺した。ここに船場本徳寺が成立し、現在に至る四百年の歴史を刻み始める。
船場本徳寺は現在、真宗大谷派内における55別院(国内52、海外3)の一別院に数えられ、播磨地域において「地域における教化の中心道場としての役割」を担いつつ、山陽教務所(地方宗務機関)と連携して「同朋社会実現」へ向けた運営がなされている。
※1 真宗大谷派は東本願寺(正式名称「真宗本廟」)を本山とする宗派。本尊は阿弥陀如来、宗祖は親鴛聖人(1173~1262)。※2 「英賀本徳寺」は現在の兵庫県姫路市飾磨区英賀の地、夢前川下流域河川敷辺りに位置。※3 現在の兵庫県姫路市亀山。浄土真宗本願寺派の寺院として現存する「亀山本徳寺」の成立。※4 真宗大谷派(通称「お東さん」)。※5 浄土真宗本願寺派(通称「お西さん」)。※6 現在の兵庫県姫路市地内町。
本徳寺諸殿
① 本堂
現在の本堂は、享保三年(1718)の完成と伝わる堂々たる大伽藍である。
約300年間、様々な天災や戦災に耐え、現在でも主に別院や教区・幼稚園
行事で使用されている。内陣には阿弥陀仏が安置され、播磨地域におけ
る真宗信仰の中心としての役割を果たし続けている。平成18年(2006)
に本堂・表門・鐘楼・大玄関の四棟が姫路市重要文化財に指定された。
④鐘楼
⑤行在所(あんざいしょ)
元は安政年間に建設された書院で、明治天皇が西国行幸(明治18年)の際、宿所として使用され「行在所(あんざいしよ)」と呼ばれるようになる。その後の火災(1932)などで焼失した部分が多い建物だが、趣かを残した形で修復されており、一見の価値ある書院である。
⑥白書院
建立年代は決して古くはないが、広い二間造りの和風建築で、別院での打ち合わせや行事での寺院控え室として使用されている。またその雰囲気が好まれ、外部団体の勉強会などでも使用されている書院である。
⑦同朋会館
山陽教務所(宗派出張所)と本徳寺寺務所が併設し、会議や講演会が行えるよう講堂などが設けられている。
山陽教区親鸞聖人750回御遠忌事業として建設された。(2014年竣工)
⑧船場御坊幼稚園
2016年に創立100周年を迎え左姫路市内で最も古い幼稚園。本徳寺の管理運営を経て、現在は学校法人としての歩みを進めている。園舎は境内北側に位置していたが、2013年、現在地(境内南西)に移転した。園舎入口に立つ門柱(石柱)は旧園舎(戦前)からのもので、戦災を乗り越え力石柱として園児達に歴史と語りかけている。
御山廟所(おやまびょうしょ)
宝永7年(1710)姫路藩主榊原政邦から土地(姫路市井ノロ)の寄進を受け、船場本徳寺境内にあった御廟所を移転したことによる「飛地境内」である。御山境内に建つ本堂と御廟所は、東本願寺大谷祖廟(京都市東山区円山町)を模した造りとなり、御廟所には親鸞聖人・蓮如上人・教如上人からの東本願寺御歴代の分骨、並びに船場本徳寺御歴代住職、さらに真宗に流れをくむ播州一円の御門徒の御遺骨が納められている。また御廟所を中心に約1,800基のお墓があり、春秋の彼岸・盆には多くの参拝者が訪れる場所として知られている。
戦争と本徳寺
英賀に本徳寺があった頃(中世)、秀吉の英賀攻めによる戦禍を被った本徳寺であるが、近代以降では第一次世界大戦時、ドイツ軍捕虜収容所として別院境内が使用されている。その時収容されたド。イツ人捕虜兵が故郷の古城を思い出しながら造ったお城のモニュメントが今も境内に残る(a)。また先の 大戦においては市内寺院の梵鐘供出に寺地が利用され(b)、姫路大空襲では焼夷弾により焦土と化す市内にあって、本徳寺諸殿や幼稚園、門前の町並みも焼失した(C)。
そのような中、本堂や山門・鐘楼堂は罹災を免れ今日に至っている。又境内に立つ樹齢約300年を数える銀杏の木も戦禍を受けたとされるが、その白い木肌から「戦争の痛ましさ」と毎年四季を彩る姿から「命のたくましさ」を今に語り続けている(d)。