姫路船場別院本徳寺について

JR姫路駅から大手前通を北上すると、世界文化遺産にも登録される名城・姫路城の大手門にいたる。その少し手前を東西に走るのが中国地方の動脈国道二号線で、さらに二筋駅寄りを旧西国街道(山陽道)である二階町商店街が通っている。この通りを西に向かって一キロほど進んだ突き当たりに姫路船場別院が建っている。

当別院は寺号を本徳寺と称し、その歴史は蓮如上人時代にさかのぼる。上人は晩年、六歳の時本願寺を退出した実母が備後にいるという噂を聞き、下向の願いをいだき、常随の門弟である法専坊空善に依頼した。空善は上人を受け入れる道場を播磨国飾西郡英賀に建てたが、この道場が本徳寺の前身である。結局、蓮如上人の来播はならなかったが、本徳寺は上人を開基と仰ぎ、本徳寺を中心に「播磨六坊」また「英賀六坊」と呼ばれる上人直弟開創の道場によって、この地で真宗が栄えていった。

蓮如上人没後、住職は実玄、実円、教什と次第するが、実円時代の永正十二年(一五一五)には、七間四面宝形造の御堂が建立され、「英賀御堂」と呼ばれて、寺内は商工業で栄えたという。ところが、教什の夫人で証如上人の娘であった顕妙尼が住職代務を行っていた頃、豊臣秀吉の播磨攻めがあって英賀城が落ち、本徳寺は同郡亀山の地に移転させられた。この顕妙尼は東西分派に際して、東派に属することを決断したが、時の姫路城主池田輝政が、領内の真宗寺院は全て西派に属するよう命じたため、本徳寺も西派に属し、亀山御坊として今日に至っている。

池田氏に替わって姫路に入封した本多忠政は、東本願寺の門徒であり教如上人と親交が深かったことから、元和四年(一六一八)に地内町で百間四面の敷地を寄進して、東派本徳寺の再建を認めた。十三間四面の壮大な御堂が建立されたという。住職には大和本善寺の教珍が就任し(一説に顕妙尼の子)、教如上人の娘教妙尼が夫人に迎えられた。寛文三年(一六六三)には「船場御坊」の称号が送られ、享保三年(一七一八)には現在の十七間四面の御堂に改められて、播磨門徒の信仰の中心として、その重要性を高めていった。

当別院は、江戸時代以降、門首の兄弟や子女の入寺や嫁入りが何度も行われ、現在に至るまで絶えることなく連枝が住職として常住する、全国的にも稀有な別院である。

明治時代には、日本の近代化の流れのなかで別院にも社会的役割が要請された。明治六年(一八七三)には、境内に四郡組合立の「勧開中学校」が設置されたが、この中学校は後に姫路中学校(現在の姫路西高校)と改称する、姫路初の中学校であった。また、明治二十一年には播磨寺院の有志によって「崇徳学校」が開設されたが、これは予備科一年、三カ年の本科及び女子部を有する本格的な子女育成の学校であった。さらに、現在も別院東北部に開かれている「船場御坊幼稚園」は、大正五年(一九一六)の開設という古い歴史をもっている。

月刊『真宗』2004年3月号「別院探訪」より