広島別院明信院
広島県広島市中区宝町4番16号/082-241-5342/地図
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広島別院明信院について
広島は太田川の河口付近に発達した、浅野四二万六千石の城下町として知られる。しかし、この地に初めて城を築いたのは、中国地方を代表する戦国大名毛利氏であった。この毛利氏は本願寺と極めて関係が深く、天下統一を図って西下する織田信長をくい止めるため、石山合戦を戦っている本願寺に兵粮米や玉薬を送るなどの支援を行っていた。
信長との石山合戦に徹底抗戦をとなえ、最後まで籠城していた第十一代教如上人は、天正八年(一五八〇)八月に、信長の圧倒的武力に耐えきれず退城し、約二年間全国各地を転々としたが、一時期毛利氏を頼って広島にも留したという。『大谷嫡流実記』には「毛利家をたのみ、中国に住し所々御経回あり」とあるし、『東本願寺家譜』には「明年(天正九)、安芸に赴き、円澄寺(証カ)に住す」と見られる。こうした記録類や、本願寺と毛利氏との関係を考えると、教如上人の広島下向は大いにあり得ることであろう。この時上人が滞在したのが、初め一心寺(一信寺)、後に円証寺と改められた寺で、同寺が広島別院の母体となった。
寺伝によれば教如上人は、この時、近江堅田慈敬寺の証智・教智父子を伴っていたが、帰京に際して教智にこの寺を託したという。教智は院号を「明信院」といったことから、広島別院は現在も明信院と号している。正保四年(一六四七)に本堂が再建されたが、同年教智が没し、教智に後継者がなかったため、翌年、本山の掛所となった。この時、常念寺・万休寺・因伝寺の三カ寺が役僧列座に申し付けられ、一年替わりに輪番を勤めることになったという。この教智の墓は別院の旧地である大手町にいまも残っている。
以後、西派が優勢な中国地方唯一の御坊として、安芸・備後の東派寺院を統括する重要な役割を負った。寛保元年(一七四一)にも本堂が再建されているが、その規模は梁行七間半、桁行九間半の堂々たる御堂であった。また、安芸・備後はもとより、近隣の石見・周防などから参詣する門徒の数も年ごとに増えていき、文政五年(一八二二)には境内が狭小になったため拡張するなど、江戸時代を通じて繁栄した。
戦前までは、広島城正面の大手町六丁目にあったが、原爆投下によって全壊焼失し、しばらくの間再建は成らなかった。しかし、昭和二十六年(一九五一)に宝町に寺地をえて再建されることとなる。現在の本堂・庫裏は再建当時のままの木造平屋建てで、近代建築が建ち並ぶ広島市内では珍しい存在であり、広島県下の寺院の集会や研修会などに利用されている。
境内の一隅にひっそりと立つ石灯籠は、由緒来歴は定かでないものの、被爆の跡がくっきりと残されており、往時の別院を偲ばせる。
月刊『真宗』2004年5月号「別院探訪」より