赤穂別院 妙慶寺
兵庫県赤穂市加里屋51番地の2/0791-42-5575/地図
赤穂別院 妙慶寺について
JR播州赤穂駅におりたつと、赤穂城の追手門(大手門)へ至る大通りが南西方向に延びている。これは「お城通り」と呼ばれている、現在の赤穂市の中心的観光道路である。お城通りの西側に並行して、やや幅員の狭い通りが延びている。この道を駅から三〇〇mほど南西に進んだ右手(西側)に赤穂別院はある。周囲にJAや信用金庫などのビルが建つなかに、鉄筋二階建ての本堂兼会館が静かに姿を現す。
赤穂別院は寺号を妙慶寺というが、そのいわれは寺伝によると次のようである。妙慶寺の開基は、常陸笠間藩の藩主浅野内匠頭長直の叔母であり、若い時から江戸城の大奥に仕えていたが、老後暇を願い、宣如上人によって得度し、妙慶尼と号して江戸浅草本願寺内に寓居し念仏の生活を送っていた。
そして、浅野長直が正保元年(一六四四)に播州赤穂へ転封になると、彼に従い赤穂へおもむき草庵を営んだ。翌年、赤穂城が改築された折、縄張り(設計)を担当した近藤三郎衛門正純と親交があったことから、築城の余材をもって御堂を建築したという。
妙慶尼が赤穂城主となった浅野長直の叔母であるという伝承は、江戸幕府の制作になる『寛政重修諸家譜』という公式の系図では確認することができない。しかし、当別院には浅野長直と次の藩主である浅野釆女正長友の、それぞれの没時に制作されたと見られる位牌が安置されていること、近年都市計画によって別院の敷地が狭められるまでは、近藤三郎衛門正純夫妻の墓が別院内にあったことなどから、これらの寺伝はほぼ認めてよかろう。
この妙慶尼が示寂した後、妙慶寺は東本願寺第十六世一如上人に寄進されたので、本山の掛所となり、播州西部の門徒の帰依処となっていった。以降、江戸時代の赤穂御坊の動向については詳しくわからないが、文政八年(一八二五)三月の文書には「赤穂御坊」と記されているから、少なくともこの頃までには「御坊」と称していた。また、この文書は姫路御坊(現、姫路船場別院)で開催された秋安居の開講願であるから、赤穂御坊は播磨の門末を統括する触頭に任じられていた姫路御坊の触下として活動していたものと思われる。
昭和四十二年(一九六七)に赤穂市の都市計画が実施に移され、別院敷地の一部が買い上げられた。同時に御堂も庫裏も老朽化していたことから再建が企図され、現在の鉄筋二階建ての建物に生まれ変わった。この時、平等院鳳凰堂や醍醐寺五重塔などの彩色で知られる文様彩色画師の山崎昭二郎氏の制作になる天蓋が設置された。長方形天蓋と円形天蓋を組み合わせたもので、宝相華紋・蓮華紋・条帯紋などを繧繝彩色技法を駆使して描かれており、大谷派寺院には珍しい荘厳となっている。
月刊『真宗』2004年4月号「別院探訪」より