教学・研修部門主催による聖教学習会が、講師、佐野明弘氏を迎え、「浄土真宗との出遇い」と題して、4月24日、広島別院にて開催された。
佐野氏は、浄土真宗との出遇いについて「学ぶ、とか、学んで理解し、整理し、自分の人生の中でそれを拠りどころとして行動する。こういうことは知識に属するものであり、それは所有、蓄積できるものである。ところが、出遇う、ということは、蓄積できない。出遇った、といって記憶した途端に知識に落ちこんでいく。出遇いは知識でなく智慧に属するものである。出遇うということはこちらからは不可能である。これは親鸞聖人の言葉、「信心を獲る時の極り」。流れる時ではない。蓮如上人御一代聞書には、「同じみ教えを聞いてもめずらしく初めてのように聞く。」信の上にはそうあるべきである。何度でも新たに出遇っていく。知識として、「あ、それ知っている」という聞き方ではない。川はすべてが海に流れている。それは、海が川を受けとめている。私が南無阿弥陀仏の海に受け止められる。私が念仏を杖にするのではない。念仏の方が私を受けとめる。私が信心をてごめにするのではない。出遇ったことにより開かれてくる世界がある。」としめされ、人を見出していくことで人が人として成り立っていくことを、交通事故により家族を亡くした遺族の悲しみ、2016年7月の相模原障害者施設殺傷事件、トリアージ(患者の重症度に基づいて、治療の優先度を決定して選別を行うこと・同朋新聞2月号)などに尋ね、改めて「人を人として見出すことによって人が人に帰っていく」とおさえられた。
佐野氏の穏やかに切々と語られる「出遇い」とは、決して私されるものでもなく、時の経過と共に色褪せていくものでもない。果たして自分はこれまでどのような出遇いをしてきたのだろうか、との問いを頂いた。      (教学・研修部門委員 安本浩樹)